藤野可織氏を招いて −作家が語る、作家と語る−

国際コミュニケーション演習II L/IVL特別授業

2024年1月10日@学習院女子大学
(担当:国際コミュニケーション学科教授 澤田知香子)

2013年の芥川賞(「爪と目」)をはじめ、第103回文學界新人賞、第2回フラウ文芸大賞などを受賞し、現在は同志社女子大学などで非常勤講師も務める、作家の藤野可織さんの特別授業を行いました。今回は、藤野さんが昨夏に英国のイースト・アングリア大学のBCLT (British Centre for Literary Translation) に招聘され、いろいろな国から集まった12人の翻訳者とワークショップを行ったときのお話が中心となりました。昨年はKendall Heitzman氏による『爪と目』の英語版 Nails and Eyes (Pushkin Press) が刊行され、短編「私はさみしかった」がJLPP翻訳コンクールの課題作になるなど、言語の壁を越えて読まれる現代作家の一人として活躍中です。ボーダーレスになる一方で、まだまだ多くの壁が残っていたり、現れては消えたりする今の世界。さまざまな境界や、その境界を越えることについて考えさせてくれるお話をたくさん聞くことができました。

常識と人権意識 −「注意深く言葉を選ぶ」

これまでにも「まだ気がついていない差別がある」ということへの恐れについてお話しされてきた藤野さん。「注意深く言葉を選ぶ」ようにしていると述べ、「常識と人権意識」というものに真摯に向き合う姿勢が強く伝わってきました。自分の書くものが誰も排除することなくボーダーレスに読まれていくことを望む作家として、「注意深く言葉を選ぶ」というのは、今という時代への目配りを必要とする、なかなか難しいことのようです。翻訳者たちとのワークショップで取り上げられたご自身の短編「キャラ」を見直し、アップデートされてきたご自分の「常識と人権意識」を反映し、修正を施したというお話を進んでしてくださいました。

私の〈キャラ〉は私(のもの)ではない

さて、『来世の記憶』(KADOKAWA 2020)に収録されている「キャラ」という掌編については、まずタイトルからして英語への翻訳が難しい物語だということで翻訳者たちから多くの質問があり、活発な議論がなされたそうです。日常で〈キャラ〉という言葉が使われて久しいですが、実際のところ〈キャラ〉とは何でしょうか。藤野さんは〈キャラ〉は自身のものである以前に他人との関係性の中にあるものであり、シェアされるものだという風にお話しされていました。では、私たちは私たちの〈キャラ〉がどのようであってほしいのでしょう。藤野さんの物語を読んでみると新しい考えが浮かぶかもしれません。そして、多様性を謳う現代を生きる私たちの「常識と人権意識」をアップデートできることと思います。ちなみに、「キャラ」の英語版タイトルは “P-Pod” となったそうです。どうしてでしょうか。興味のある人は、やはり原作を読んで考えてみてください。

参加した学生たちからは、作家として未来の「常識と人権意識」にまで責任を持って言葉を選ぶことへの恐れはないかという問いかけもありました。その恐れも抱えつつ、自然体で書き続けていく藤野さんの姿は参加者全員にとって大変印象的だったようです。

「キャラ」をめぐっては、よりリラックスした質問もいろいろありました。日本語と英語の表記のこと、「キャラ」の物語世界やその世界に登場する「心ちゃん」のことなど。また、イギリスの大学におけるSDGsの話から学食の話まで、藤野さんと学生たちが気軽にやりとりする場面もあり、特に留学を控えた学生たちにとってプラスアルファの楽しさもあったようです。 藤野さんの物語のように現代の日本文学が英語になって国境を越えていく動きは最近さかんです。世界のさまざまな文学がさまざまに翻訳され世界中でシェアされていくことは、きっといろいろな壁をなくすことにつながっていると思わされる機会でした。

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